岩波文庫鏡花短編集の編者川村二郎は解説の中で”現実界を超え、非在と実在が交錯しあう幻視の空間を現出させる鏡花の文学”(の中で、この)「二,三羽-十二、三羽」は”絶品というべき”作品であると述べている。
 「二、三羽〜十二、三羽」は雀と泉鏡花(1873〜1939)家族の物語である。
  

 引越をするごとに、「雀はどうしたろう。」と心配する”八〇数歳の祖母は”「いつも仏のご飯の残りだの、洗い流しのお飯粒を、小窓に載せて雀を可愛がっていたのである。・・・雀の親子の情に、いとしさを知って以来、申出るほどの、さしたる御馳走でもないけれど、お飯粒の少々は毎日欠かさず撒いておく

土手三番町の家へ越してから一四,五年になる鏡花は、雀たちに餌を与えていた。当時は稲を食い荒らす害鳥と言われた雀に対する鏡花家族の愛情の満ち満ちた小品である。

 金沢・泉鏡花記念館の庭に「雀のお宿」と名付けられた展示物がある。見学者の中には餌台を「雀のお宿」と称するのは可笑しいと言う人がいる。

1992年、私は20世紀を代表する建築家ミース ファン デル ローエのもとで、世界遺産であるバルセロナパビリオンの設計建築を担当した89歳のルーゲンベルグ氏をベルリンの自宅に訪問した。彼はミースが桂離宮、醍醐寺から学んだものをバルセロナパビリオンに取り入れた事を教えてくれた建築家であるが、同時に自然の大切さを教えてくれた私の師の一人でもある。ルーゲンベルグ氏は独居老人にも関わらず室内は整理整頓され、毎日の楽しみは小鳥たちに餌を与えることだと言う。バードフィーダーを独語で何と言うのか尋ねてみるとVogelhaus(鳥の家)、英語で言うBirdhouse(鳥の家)はNistkasten(巣箱)でありVogelhaus(鳥の家)では無いという説明でであった。添付資料は註1ドイツのバードフィーダーのカタログであるが面白い事にVogelhaus Sperling(鳥の家 スズメ)と書かれている。日本語に意訳すれば「雀のお宿」とも翻訳可能である。

関東大震災の中で鏡花は雀たちがどうなったかと心配する。

 雀たちは・・雀たちは・・火を避けて野宿しつつ、炎の中に飛ぶ炎の形を、真夜半にかけて案じたが、家に帰ると、転げ落ちたまま底に水を残して、南天の根に、ひびも入らずに残った手水鉢のふちに、一羽、ちょんと伝わっていて、顔を見て、チイと鳴いた。後にそっと、谷の家を覗きにいった。近づくと胸は轟いた。が、ただ焼原であった。私は夢かとも思う。いや、雀の宿の気がする

小学教育掛図解説」の著者馬淵冷佑は、「雀のお宿」解説の中で、福井県九頭竜川上流富田村蕨生の豪農城地六右衛門宅にも孟宗竹の巣箱があり数百羽の雀が宿っていると述べている。
 「雀のお宿」城地家屋敷は嘉永5年(1852)、当時名字帯刀を許されていた初代城地六右衛門によって建てられた。この建物は野中村の棟梁大久保源次郎が建築にあたったもので、福井県嶺北地方中央部に分布する形式であり、土間が中柱から奥まで入り込んだ奥越地方独特の様式を持っている。

 福井県はこの建築後百三十五年の屋敷を文化財として後世に残すべく、昭和62年(1987)当主城地京示氏より譲り受け現在福井市「おさごえ民家園」に移築復元されている。
 馬淵冷佑は「小学教育掛図解説」の中で

“藁屋根の庇の下に直径三,四寸、長さ約四間の孟宗竹を4本、刀掛に架けた刀の様に針金で吊るし、その竹の1節ごとに一つずつマッチ箱ぐらいの穴をあけ、各部屋の壁で仕切った、一見アパート風のものである。此処は文化の逃避境であるだけに、今も数百羽の雀が宿って城地氏の愛護を受け、楽しい生活を続けているそうだ”と述べている。

 「雀のお宿」は私が16歳だった明治22年(1889)ごろ、今から50年前、「雀が田畑を食い荒らすので餌をやるから田畑を荒らすな」と餌を与えたと

IZUTSU LAB OF BIRD HABITAT 3
← INDEX
NEXT →
 1.孟宗竹を使ったコロニー様式の『雀のお宿』
         福井九頭龍川 豪農城地家屋敷
「雀のお宿」の背景にはこうした鏡花の雀に対する美しい愛情があったのである。記念館の「雀のお宿」の名称は全く可笑しくないし、自然保護の観点からももっと強調すべきであろう。 幼くして母を失った鏡花の作品には随所に母への思いを読みとる事が出来る。母、鈴は加賀藩御手役者葛野流太鼓方中田万三郎豊喜の末娘だった。文頭には祖母の雀に対する愛情物語が登場するが、其のあとには”〜はれて雀のものがたり〜”そらで嵐雪の句は知っていても、今朝も囀った、と心に留める程ではなかった。”と述べている。芭蕉の高弟の一人だった服部嵐雪(1654〜1707)の俳句”元日やはれて雀のものがたり”にはわびしさが感じられる。

ある殿様が領地巡回中に梅の枝にぶら下がる、大きな瓢箪を見つけた。百姓に尋ねて見ると、「山雀(やまがら)の宿」との答えである。ああ、これが、能狂言の小舞の謡の中にあった”いたいけしたるものあり。いたい張り子の顔や、練稚児。しゅくしゃ結びに、ささ結び、やましな結びに風車。瓢箪に宿る山雀、胡桃にふける友鳥・・・・”とはこのことかと、殿様は納得し、褒美として餌代を百姓に与えたという、能に関わる挿話をさりげなく挿入している。

すべての日本人が鏡花のように、雀たちに餌を与えるようになれば日本の自然環境もおのずと回復されるだろうし、人と人の絆は深まるだろう。(June 20,2010)

 

 註1 http://www.heimwerker.de/heimwerker/service-lexika/bauplan-archiv/heimwerken-Fuer−Tiere/
   vogelhaus
-futterhaus.htm



-

は随筆「閉田耕筆」の中で「飼鳥」に対する言葉として「野鳥」を使用している。伴蒿蹊は当時の「飼鳥」の風潮を憂い、”さるはこれを野鳥といやしみ、飼鳥の音あしくなるとて竹棹などもて追いやらう人もありとなん。畢竟世の風に乗ると値の貴きにまどふならじゃは。あるは耳目の玩びにあらで、利を求めるがために、他の好みを射るも多しとか。士農工商のあるがうえに、かうようの小径によりて利を謀るは論ずるに足たらねど、また大息せらる。”と述べている。(May 10, 2010)改定・増補(July 10,2010)

3.文学者と雀たち  鏡花そして白秋
     鏡花と『雀のお宿』〜『 二、三羽〜十二、三羽 』に見る雀の物語 〜

2.江戸時代に使われていた「野鳥」という言葉

 江戸時代、「舌切雀」の物語が「宇治拾遺物語」の「雀、報恩の事」から産まれたとの説を検証するため江戸時代の資料を読んでいる内に大変興味深い事に気がついた。
元朝日新聞論説委員で評論家の故荒垣秀雄は昭和52年帝国ホテルで開催された「中西悟堂文化功労者顕彰祝賀会」の祝辞の中で”野鳥という言葉は大昔から日本にあった言葉ではなく、中西が一般用語として発明した言葉である。鳥類の科学と芸術の融合を目指して日本野鳥の会が結成された。それまでは小鳥とか鳥類と言って、野鳥と言う言葉は無かった。悟堂和尚は始め飼鳥と区別するために「山野の鳥」を考えたが西悟堂は三カ月近くの苦慮呻吟の果て新発明「野鳥」という言葉を創作した”と述べている。実は「野鳥」と言う言葉は江戸時代後期に歌人、文筆家として活躍した伴蒿蹊(1733〜1806)



ころ、不思議に田畑を荒らさなくなったので、雀が可愛くなり軒に竹竿で二百個の雀のお宿を拵えたところ、今日では五、六百羽の雀が泊まるようになった。このお宿を狙って鳶や隼がやって来て雀を虐めるので愛犬「赤」を置いて雀たちを守らせた。「赤」は主人の意を戴し常に「雀のお宿」を守り鷹、隼を追い払い近隣の人たちの称賛の的であった.

 昭和初期に撮影されたと思われる城地家「雀のお宿」には見事な孟宗竹が使用されている。孟宗竹を切断し縦に利用するデザインは今日でも見られるが四間もの長い孟宗竹を一本横使いの長屋風、アパートスタイルの巣箱は私の知る限り世界でも類例が無い。同家の周囲には現在も竹林がありこの竹材を利用した見事なバードハウスである。

 17、8世紀ヨーロッパからアメリカ大陸に渡った開拓者たちは先住民族インディアンたちがヒョウタンで作った巣箱を集落の設置し、パープル マーチンの集団生活〜コロニー化を図っているのを見て、彼らも高層建築様式のバードハウスを製作パープル マーチンのコロニー化に成功した。城地家の巣箱は、雀を隣人として迎えるゲストハウスであり、巣箱のアパート化は集団生活を常とする雀にとっては素晴らしい生活空間の提供だった。此処には城地六右衛門の雀に対する深い愛情が見られる。

 昭和59年に発刊された「奥越前の昔はなし」(大野市文化協会)「とみたの民話」(富田公民館)は両書とも、古老大島定雄(大正4年生(1915))からの「雀のお宿」についての聞書きであるが次のように述べている。”城地家は「だんな格」の家であり、明治初期、茅葺の屋根裏が雀の為に穴を開けられたり、つつかれたりして痛められたので、屋根裏に穴を開けさせないために孟宗竹を長さ二間ほどに切って五本縄で上下につなぎ、節と節の間に穴を開けて一番を節の中で暮らさせ子雀を外敵から守りました。正月元旦には雀にも施しだと言って、玄米などを竹の穴にいれてやった”

 これは北欧三ケ国で、クリスマスの時期になるとオオムギの穂を庭木などに日本の門松のように飾り、野鳥達に餌を与える習慣と酷似しており大変興味深い。

*( 本稿の調査に際しては城地京示様、ご家族、大野市総務部情報広報課広報広聴係 松森浩之様の絶大なるご協力を戴きました。厚くお礼申しあげます。)(May 10,2010)