うに気をつけて、お米を入れてやりました”と述べ、馬淵は”一少女の家では、集まって来る多くの雀を伝統的に愛護するので、雀も家人に親しみ、楽しそうに餌をついばんだり、仲良く遊んだりすることを序し、之を感読させることによつて、動物愛護の精神を養ふことを指導の目的としている”と解説している。

◇ ハナ ハト読本とサクラ読本には大きな違いがある。

ハナ ハト読本は大正デモクラシーの中で誕生した自由主義、児童中心主義に基づいて製作された。教材は”アメリカだより サンフランシスコから シカゴから ニューヨークから”、”コロンブスのタマゴ”、”ホノルルの一日”、”トラック島便り”、”ナイヤガラの瀧”、”パナマ運河”、”アレクサンドル大王と医師フィリップ”、”リンカーンの苦学”、”リア王物語”、”チャールス ダーウイン”、”トマス エジソン”等々自由闊達に選択されている。

これに対して、20世紀初頭日本の帝国主義、軍国主義、国粋主義の台頭はファシズムを産みだし、教科書の作成に大きな影響を与えた。

サクラ読本の編集責任者、井上赳(1889〜1965)は東京帝国大学文科大学国文学科卒業、旧七高(現鹿児島大学 文理学部)の教授となったが、大学の先輩である高木市之助に誘われ文部省図書監修官となり、以後20年間にわたって国定教科書の編集に関わった。昭和17年「井上赳国語読本編修20年」を祝う会が神田一橋教育会館で開催された。この祝賀会では島津久基東京帝国大学教授、西尾実東京女子大学教授等々から賛辞の言葉があったが、ある国民学校の校長は、

サクラ読本には「日本精神の高揚」が通っていない。我が国の国語読本は徹頭徹尾「皇民の練成」
という一点に集中、「日本精神の高揚」一本で編集されるべきである。内容的に言えば、建国精神の
高揚、勤労精神の顕彰の資料を満載すべきである

と辛らつな手厳しい批評をした。これが、この時代の風潮であった。

 明治5年(1872)の学制公布以来、教科書は自由採択性であったが、教科書出版社の競争が激しく、明治35年(1902)には全国的な教科書疑獄事件が発生、同年文部省は全国一律の教科書国定制を実施した。教科書は文部省が自ら編集発行、起草委員会が教材の原案作成、監修官が手分けして文章を作成、原案は文部省内の文部次官、図書局長、普通局長、督学官、文書課長、監修官で検討された後、文部大臣の諮問機関「教科書調査会」メンバー、各政党の代表の老政治家、陸軍教育総監部本部長、海軍教育局長、文筆家、政治、経済、教育、文学、歴史、科学の各界代表の大学教授連、貴族院議員代表の華族、東京高師・女高師付属小学校主事、東京市内小学校長数名、総勢20名程度の有識者と省内からは編集課長以下監修官全員(但し発言権無し)で最終検討がなされた。

 こうした時代背景の中で、小学3年生の国語読本の中に”天の岩戸”、”天長節”、”神武天皇”、”日本武尊”、”神風”、”軍旗”、”潜水艦”、”東郷元帥”と並んで、”雀の宿”が教材として取り上げられたことは異例のことだった。敗戦時に文部省は一切の文献資料を焼却してしまったので、掲載された理由は定かではないが、当時、自由を愛し、児童中心の教科書を制定しようとする井上赳等図書監修官のファシズムに対するささやかな抵抗であったとも言える。なお井上は、この後、昭和19年(1944)、軍部、右翼団体の主張する国粋万能、軍事優先の教科書の国民学校教科書の制定に同意することができず辞表を提出、23年間国定教科書編集生活の幕を自ら下したのであった。註2

 ◇ 京都市観光名所としての「深草雀の宿」

  大正4年(1915)、久邇宮、梨本宮両殿下は瓢箪を同家に下賜、明治天皇を祭る伏見桃山御陵を詣でる市民達は、鍵本家でこれらの瓢箪を参観した。現在同家には大正天皇の妃であった貞明皇后の実家である九条家からご下賜された瓢箪も残っている。京都市観光課は「雀のお宿」を名所に指定、「法華礼誦要文集の編纂者であり歌人でもあった日蓮宗京都深草瑞光寺の住職毘尼薩台巌(1829〜1909)の戯吟した「雀のお宿」を載せた絵葉書、栞などを発行、見学者に配布した。

 敗戦後、昭和23年(1948)10月25日発行の英字新聞The Mainichiは第一面に連合国によって行われた東京裁判で東條ら「A級戦犯」に対して死刑の判決が下されたことに対するマッカーサー元帥の談話を掲載しているが、文化面では鍵本家の「雀のお宿」の記事を載せている。取材した記者は「雀のお宿」を単純にHotel,Innとは翻訳せず、鍵本家一族の雀に対する深い愛情を強く感じたからだろう、「雀のお宿」をHome of Sparrowsと翻訳、紹介している。

昭和25年(1950)日本鳥類保護連盟は日本の鳥類保護者に表彰状を贈ることとなり、同連盟の理事であり日本野鳥の会の創立者である中西悟堂がその任に当たった。中西は“私がイの一番に選んだのが京都の「雀のお宿」鍵本家であったが、残念ながらその時は既にこの「雀のお宿」に供給する米が無いほど敗戦日本は貧窮のどん底に落ち込んでいたという事情から自然消滅のかたちとなり二百数十年にわたる伝統は消えていたので、残念ながら表彰の対象とはなし得なかった”と述べている。

これまで日本の巣箱は、ベルレプシュ男爵に学んだ内田清之介博士が大正6年(1917)盛岡高等農林学校演習林に懸架した巣箱が、その嚆矢であると言われてきたが、この巣箱は森林の害虫を駆除する野鳥を繁殖させる事が目的だった。これに対して鍵本家の「雀のお宿」は雀を慈しみ愛する事を目的とした、巣ではなく、まさしく「雀のお宿」であった。英字新聞記者が「雀のお宿」をHome of Sparrowsと紹介したように、雀たちにとってはHome Sweet Homeだったのである。日本でも三百有余年前に「雀のお宿」としての瓢箪の住まいが存在していたのである。

戦中戦後の異常な食糧不足、社会構造の変化に伴う産業施設の増設、人口の急激な増加に依る隣接地区の変化の中で「雀のお宿」は次第にさびれていった。また江戸時代からの家屋は老朽化が急速に進み、鍵本一族にとっては断腸の思いだったが、昭和51年(1976)先祖伝来の蔵と一部瓢箪の「雀のお宿」を残し家屋が取り壊され,セキスイハウスにより新居が建設された。現在の住居には十数個の瓢箪の「雀のお宿」が残され、かすかに往年の「雀のお宿」の面影を残している。 然し現状のままではその十数個の瓢箪も風雨にさらされ、破損消滅は時間の問題となってきている。“野鳥は金銭には換える事の出来ない遺産である”と言われるが、鍵本家の瓢箪の「雀のお宿」は日本人の精神史を物語る上で,我々が次の世代に引き継がなければならない貴重な遺産である。

鍵本家の「雀のお宿」は閉鎖されてしまったが、鍵本家の雀に対する愛情は今なお語り継がれ、「雀のお宿」を偲ばせる伏見人形、菓子、暖簾等が今でも旅行者の旅情を慰めている。鍵本文右衛門に始まり、歴代の鍵本家一族によって二百数十年間伝承された鍵本家の「雀のお宿」の思想は、二十一世紀の野鳥保護、ひいては環境保護運動の礎石となるだろう。

註1滑川道夫(1906−1992)「体験的児童文学史」:国土社 (1993)

註2藤富康子 「井上赳 サクラ読本の父」勉誠出版 (2004)

                        内容:訂正・増補(July 1,2010)

 

はじめに

大正6年(1917)ドイツ ベルレプシュ男爵の影響を受けた農商務省鳥獣調査室長内田清之介(1884〜1975)、葛精一(1894〜1984)は日本で最初の巣箱を盛岡高等農林学校(現岩手大学)演習林に懸け野鳥の害虫駆除能力の調査を行った。その結果野鳥が高い害虫駆除能力を持つ事が証明され、農商務省は森林を蚕食、林業に大きな被害を与える害虫を駆除する野鳥を繁殖させるため全国的に巣箱懸架運動を推進、大正9年〜12年の4年間にわたり31府県に合計7831個、更に大正14年(1924)に22600個の巣箱を懸架した。こうしたことから、日本では巣箱の祖は内田清之介博士と言われてきた。
 これに対して、野鳥を友として迎え、慈しむための野鳥の宿りの場所としての機能を持つ巣箱について、中西悟堂は、京都伏見深草の鍵本家「雀のお宿」を挙げ、“ひところは日本全国で行われた鳥の巣箱はドイツ ベルレプシュ男爵が広大な邸内と所有地に試みて効を奏したのが元祖であると言われてきたが、それよりも遥かに古く、この瓢箪の巣箱が日本にもあったわけである”と指摘した。実は江戸時代から日本にも巣箱が存在していたのである。
 「害虫を駆除する野鳥を繁殖させる巣箱」ではなくアメリカ文化に見られるバードハウス思想〜野鳥をBird Neighbor(隣人)、Wild Bird Guest(賓客)、Citizen Bird(市民としての野鳥)、Feathered Friend(羽のある友人-柳田國男は野鳥を羽客と呼んでいる)で雀を迎える愛鳥思想を持っていたのが鍵本文右衛門とその一族であった。

 

◇京都伏見深草 鍵本家『雀のお宿』誕生

元禄14年(1701)3月14日、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)で起きた赤穂藩主浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央に対する所謂「殿中刃傷」事件は天皇家に対して忠誠心の篤かった徳川綱吉を激怒させた。綱吉はその日のうちに「浅野内匠頭長矩の即日切腹」、「赤穂浅野家五万石の取り潰し」を決定、告知した。
 赤穂藩士であった鍵本文右衛門は野に下り、竹林に囲まれ伏見街道に面した京都伏見深草に居を構え隠遁の生活を送っていた。
口伝によると、“浪々の身で、前途を儚んでいた鍵本文右衛門の庭に、或る日1羽の傷ついた雀が迷い込んで来た。文右衛門はその雀の傷を癒し、餌を与え手厚い看護をしてやった。やがて回復した雀は同家を頻繁に訪れるようになり、文右衛門は可愛さから、巣箱として穴を開けた瓢箪を吊るしてやった。雀
はやがて仲間の
雀を連れて同家を訪れるようになったので、文右衛門は雀の宿りの場所として座敷、台所等至る所に大少三百ばかりの瓢箪を吊るしてやったところ常時数百羽の雀が住みつくようになった”それ以来、鍵本家では代々にわたり、二百数十年間連綿として雀に餌を与え、瓢箪を巣箱として吊るし続けてきた

◇「小学国語読本巻六」に掲載された雀のお宿

この「雀のお宿」の話を動物愛護の精神を培う意味で重要だと考えた大正時代の文部省は、尋常小学校三年の読方の教科書(巻六第十七課)に「雀のお宿」として掲載した。(この教科書は通称”ハナ、ハト読本”と呼ばれた教科書で大正7年(1918)から昭和7年(1932)まで15年間使用された)”・・・・この巷間の伝聞は誤りであることが、大正9年発行の文部省発行尋常小学国語読本巻六を入手して判明した。 実は「雀のお宿」の物語は昭和8年から昭和15年にかけて使用された”サイタ サイタ サクラガサイタ”に始まる「小学国語読本 巻六 尋常科用」(通称 サクラ読本)に掲載されていたのである。
 そして大変興味深いのは、明治・大正の文豪森鴎外(森林太郎)(1862〜1922)、雑誌「赤い鳥発行者鈴木三重吉(1882〜1936)、神話学者松村武雄(1883〜1969)らと共に「日本お伽集」の執筆、編纂に当たった馬淵冷佑((1875〜1941))が文部省国定教科書編集員として、初めての色刷、文学的教材を多用し、五大童話取り入れた画期的な”サクラ読本”編纂に参加していたのである。

そもそも、「日本お伽集」は馬淵冷佑の発案だった。当時東京高師の訓導だった馬淵は”児童読物として、我が国の神話、伝説・童話の代表的なものを整理しておきたい”と考え、同僚の音楽教師山崎光子註1の義弟だった松村武雄を通して森鴎外、鈴木三重吉に働きかけた。そして、材料選択・松村武雄、文章作成・馬淵冷佑、推敲・森鴎外、鈴木三重吉,松村武雄と各自が作業を分担し「日本お伽集」が大正九〜十年(1920〜21)に倍風館から出版された。

明治5年(1872)の学制発布で全国に小学校が出来たが、当時は子供一人ひとりに教科書が行き渡らなかったので教師は児童達に一度に教材を見せるために掛図を使用していた。この教育手法は大正、昭和と受け継がれた。

馬淵冷佑はサクラ読本「小学教育掛図解説」の「小学国語読本 巻六 尋常科用」の中で“教材は黒光茂樹画伯の画いたもので、京都市伏見区深草一本松下ル鍵本敬雄氏の「雀のお宿」をモデルにしたものである”、“巣の数は、一時は五百にも達し、江戸時代参勤交代の諸大名は伏見街道通過の際には行列を止めて見物、明治時代には兵隊が行進を止め入口に小銃を組んで、見物をした”と述べている。

挿絵を描いた黒光茂樹(1909−1993)は若干25歳で帝展に入選した新進気鋭の画家であったが、鍵本家を訪問、具に瓢箪の「雀のお宿」を観察し、馬淵が解説の中で”本図は、鍵本家の中庭にある「雀のお宿」の冬を土蔵の方から座敷に向かって写生したもので、幾分想像を交えている”と述べているが、現存する江戸時代の吊り燈籠(金燈籠)、庭の雀を眺める昭和初期の女子生徒の制服だったセーラー服を着用した、おかっぱ頭の少女の後姿を描いている。この教材の作者は不明だが、解説から判断すると、馬淵が何らかの形でかかわっていたのではと考えられる。

 第16課は「雪の夜」と題する文章であり、次いで第17課「雀の宿」では、昨夜らいの降雪に悩む雀の姿を”きのふから降積った雪に朝日がさしてどこを見ても、きらきらと銀色にかがやいています。じつと空を見て居ると、小鳥が、幾群も幾群も、悲しそうな声で鳴きながら飛んで行きます。あれは雪のためにたべものが見つからないので遠くへさがしに行くのでしょう。
早く、うちの雀の宿に来ればよいのにと思つて、裏庭へ行ってみると、もう数へきれないほど雀が集まって、ちゅうちゅう鳴きながら、うれしそうに朝御飯を食べて居ます”、”けさやった餌も、もう、なくなったものと見えて、集まって居る雀は、皆さびしそうにして居ます。私は、なるたけ、此のかはいらしいお客様をおどろかさないよ

 

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IZUTSU LAB OF BIRD HABITAT 2

1.江戸時代の日本にもあったバードハウス