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アメリカ文化としてのバードハウス 2
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広漠たる荒野の中で生活する開拓者達にとって唯一の友は野鳥たちだった。農民達は冬になると故郷の我が家、教会、開拓を象徴する幌馬車などをテーマにバードハウスを作った。孤独を慰めてくれる荒野の友フェザードフレンド(翼を持つ友人)を迎えるゲストハウスだった。註12、13、14

農民たちがいつ頃からバードハウスを作ったか、その時期については不明である。ヨーロッパでは古くから鳩を食べるためドーブ・ハウス(鳩小屋)を作り自然飼育していた。また、16世紀のブリューゲルの絵に見られるようにネーデルランド、北ドイツでは註15、ヨーロッパムクドリ捕獲のために巣壷を設置されていた。

巣箱(バードハウス)はアメリカで突然作られたものではなく、英国ならびにヨーロッパから渡来した開拓者たちの故郷でも、古くから使用されていた。然し、ヨーロッパの食用に供するための野鳥を自然飼育するNest Boxは、アメリカでは、何時しか友としての野鳥を招待するためのバードハウスに変化して行った。

こうしたアメリカにおけるバードハウスの変化を、記録、絵画、写真等によって証明を試みたのが、美術史家のMay Brawley Hilメイ・ブラウレイ・ヒルの著作註16である。著者はアメリカの庭園史ともいうべき彼女の著書『Furnishing The Old -Fashiond Gar

den』の中で庭園計画の中で重要な要素の一つだったバードハウスを取り上げている。

17世紀、バードハウスは農民たちによって作られていた。然し18世紀になると、陶器メーカーが壜形状の巣箱、マーチン用の壷巣を製造販売、更に後半にはミソサザイ・ボックスと呼ばれた建築的なバードハウス、1780年にはボストンの塗装業者が塗装した教会、集会場を模したバードハウス、またポールを使用したアパートメント形式のマーチンバードハウス等を製造販売した、と著者は引用文献を明示し解説している。

このように18世紀に、バードハウスを製造販売する会社が存在したことは、農民だけが野鳥を友として遇したのではなく、都市並びに都市郊外で生活する一般市民達もバーフォフィーダーで餌を与え、バードハウスを懸架していたのである。

4.故郷を偲んで~想い出の家
        教会、そして幌馬車がバードハウスへ

『鳴き真似』をする鳥については徳川家康についても伝説がある。

徳川家康は1542年の生まれ、それに対してシエクスピアは1564年、そして死亡したのは共に1616年、ピルグリームファザーズの一行がメーフラワー号に乗って、アメリカに到着したのが、二人の死後の1620年であった。

明治、大正初期にジャーナリスト、歴史家として活躍した山路愛山(1865~1917)は1915年『徳川家康』註18を発表、新しい「家康」論として衆目を集めた。この中で「少年時代の家康につきても根もなき作話極めて多し」と述べながら、江戸時代末期に書かれた『徳川実記』註18附録の『故老諸談』、『道斉聞書』、『太平余談』を参照し、自分の鳴き声を持たず、他の鳥の鳴き真似をするクロツグミの物語を書いている。

『八歳にならせられし時、尾張の織田信秀のために囚われ、同国名古屋の天主坊というにおわせまし時、熱田の神官、御釣徒然を慰め奉つらんとして黒鶫といえる小鳥のよく諸鳥の音を似するを献じければ、近臣ら、いとめずらしきものに思いめで興じけり。君御覧じて、かれも珍禽を奉り心えはさる事なれども、おぼしめす旨あれば返し下さるべしと聞き給えば、神官思いのほかの事にて持ち帰りぬ。その後、近侍にむかわせられ、この鳥はかならず己が音のおとりたるをもて他鳥の音をまねて、その無能をおおうなるべし、およそ諸鳥皆天然の音あり、黄鳥(ウグイス)は杜鵑(ホトトギス)の語を学ばず。雲雀(ヒバリ)は鶴の声を擬せず。おのが本音もて人にも賞せらる。人またかくの如し。性質巧智にして万事に能あるものはかならず遠大の器量なきものぞ。かかる外辺のみかざりて真能のなきものは鳥獣といえども玩ぶには備うまじきなりと宣えば御程に、かかる事、おもい至らせ給うは行末いかなる賢明の主にならせ給わんと、あやしきまでに感じ奉りぬ』

山路愛山は「いずれも今になりては名高き話なれども、八歳の小児が鳥の音に譬えての人材論は余りにも出来すぎたり。これはただ家康は少年の時より己が音なき鸚鵡インコの類を好まざりしというに尾鰭を付けたる作話ならん」と評している。「耳にするも嫌な臣モテーマーの名前を教え込まれたムクドリを贈られたヘンリー4世」の後日譚をシエクスピアに聞いてみたいものである。

肥前国平戸藩主松浦静山(1760~1841)の随筆『甲子夜話』註19に登場する信長、秀吉、家康のホトトギスに託した三者の性格論も興味深い。

『夜話のとき或人の伝けるは、人の仮託に出る者ならんが、其人の情実に能く協へりとなん。郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、

鳴かぬなら殺してしまへ時鳥  織田信長[織田右府]
鳴かずとも鳴かして見せふ杜鵑 豊臣秀吉[豊太閤]
鳴かぬなら鳴くまで待つよ郭公 徳川家康[権現様]

このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上に、固より仮託のことなれば、作家記せず。
なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

三者のホトトギスが時鳥、杜鵑、郭公と別記、区別されているのも興味深い。


註12:PERI WOLFMAN & CHARLES GOLD :Birdhousing (1993)
註13:Ann Ball:Catholic Tradition in the Garden1997
       The first birdhouses in North America may well have been made by early Native Americans
        from gourd.
註14:MERDITH BOOKS :FOR THE BIRDS CREATING SANCTUARY
註15: Geschichte des Vogelschutzes und Entwicklung der Nistkasten
註16:May Brawley Hilll:FURNISHING THE OLD-FASHIONED GARDEN- Three Centuries of American
             Summerhouses ,Dovecotes, Pergolas, Privies,Fences& Birdhouses(1998)

 

1620年、信仰の自由を求める102人のピルグリムファーザーズ(ピューリタン清教徒)たちは、メイフラワー号に乗って現在のマサチューセツッ洲プリマスのマサチューセツッ湾に到達した。入植当初の状況は厳しく、半年で半数程が病死したが、彼らは、先住のアワンパノーアグ族の協力を得て、新天地を開拓、故郷の地名に準え、その地をプリマスと名づけた。

翌1621年の秋は収穫に恵まれ、ピルグリムファーザーズはワンパノーアグ族を招待し、神の恵みに感謝、ワンパノーアグ族と食事を共にしたが、この行事が、後の収穫感謝祭の始まりとなったと言われている。


註17
 徳川家康 :  山路愛山著 独立評論社 大正4年(1915) 国立国会図書館所蔵
           『徳川家康』 上 山路愛山著 岩波書店 1988年
註18 徳川実記 :   北海道大学北方資料室所蔵
註19 甲子夜話 :  松浦静山著                 国立公文書館所蔵
   『甲子夜話』 巻五十三[八] 松浦静山著 中村幸彦・中野三敏 校訂 東洋文庫 平凡社 昭和53年


(岡崎市図書館交流プラザオープン記念イベント講演会資料から)

6. 『鳴き真似をする鳥』 徳川家康とシエクスピア

この本はシエクスピアの作品に登場する鳥類を細かく分析しているが、この本によるとシェクスピアの作品には約130 種類の野鳥が登場している。登場回数が多いのは、タカ(35)、フクロウ(24)、ヒバリ(19)、ハヤブサ(17)、ワタリガラス(17)、ハト(16)、ナイチンゲール(16)、オオタカ(14)、サギ(14)、ハクチョウ(13)、ヤマウズラ(12)、ミソサザイ(12)、ニワトリ(10)、ヤマシギ(10)、ミヤマガラス(9)、ノスリ(9)、カササギ(9)、カモメ(7)、クロウタドリ(7)、スズメ(7)である。恐らく、Eugene Scheiffelin はこの本を読みヨーロッパムクドリの移入を考えたと思われる。

それから120年たった現在、アメリカのヨーロッパムクドリの棲息数200,000,000(2億)羽以上と言われている。ヨーロッパムクドリはパープル・マーチン、ブルーバードなどアメリカ土着の野鳥達のバードハウスを略取、バードフィーダーの餌を強奪、数100羽という大集団で生活、所嫌わず大量に脱糞、至るところで我が物顔に振舞っており、アメリカ市民たちから鼻つまみ者として嫌悪、顰蹙を買っている野鳥である。

放鳥から100年後の1990年9月、ヨーロッパムクドリの異常な繁殖力を懸念した、ヒューストン大學英文学教授Earl L. Dachslarger はThe New York Times に” All Shakespear's Fault”(すべてシェクスピアの責任)と題する諧謔的エッセーを寄稿している。

2006年2月のThe New York Timesに作家のLaura Shaine Cunnighamは"The Starling Chronicles"と題し、娘と一緒に、屋根から落下したムクドリの雛鳥を養育している内にムクドリの支援者となり、「ムクドリは酸性の糞で建築物を老化破壊する、土壌を疲弊させる、飛行機にとって危険な存在と言われるが、「沈黙の春」を書いたレイチエル・カーソンは”ムクドリは1日に100匹の害虫を取り雛鳥に与える」、また「モーッアルトはムクドリを飼育し、彼のピアノ・コンチェルトG調にムクドリの鳴き声の旋律を取り入れているとの説もある。」とムクドリを擁護している。

2007年2月、米国農務省で30年有害昆虫の研究、退官したTim Lockleyはミシシッピー南部で発行されているSun Herald 紙に”Blame starling on Shakespeare”と題するエッセーを寄稿しヨーロッパムクドリの異常な増加を嘆いている。

前出の『Birdhousing』には「セントラルパークで群れ飛ぶヨーロッパムクドリ」「”ウエデイング・ケーキ”スタイルのパープル・マーチンの五番街のバードハウス」(製作年代、作者不詳)の絵が掲載されている。ヨーロッパムクドリはパープルマーチンの巣を盗用、在来種の野鳥の生活を脅かすので心あるニューヨーク市民たちはヨーロッパムクドリの増加を懸念していた。

ムクドリ論争は今後も続くだろうが、地下のシェクスピアも苦笑いをしているだろう。



註17 James Edmund Harting :The Ornithology of Shakespeare:Critically Examind ,Explained and
                 Illustrated』   (A Wheaton & Co.Ltd. 1864)
            

1800年代、ヨーロッパから新大陸に移住した人たちは故郷の国の種々の動植物をアメリカに移入しようと試みたが、大部分はアメリカ風土に馴染まず絶滅した。また都市計画にも英国の様式を取り入れようとした。その一つがニュヨークのセントラルパークである。この公園は1847年英国リバプール近郊に建設されたBirkenhead Parkに範をとり1858年から78年にかけて建設された。

英国からアメリカに移住しニューヨークで製薬業者として大成功した実業家Eugene Scheiffelinはこの英国に範をとった公園にさらに英国の雰囲気を加味するために、英国でよく見ることができるヨーロッパムクドリをロンドンから持ち帰えり、完成したばかりのセントラルパークで1890年40羽、1891年60羽合計100羽の繁殖力の旺盛なヨーロッパムクドリを放鳥した。

Eugene Scheiffelinがヨーロッパムクドリを移入したのは、彼がシェクスピアの大ファンであり、シェクスピアの作品にヨーロッパムクドリが登場していたからと言われている。

ヨーロッパムクドリは、『ヘンリー4世』第1部第1幕第3場ウインザー王宮の場に登場する。

ヘンリー4世は敵の捕虜となったモーティマー卿を裏切り者と罵り、引き取るために身代金を払うなどもっての外と激怒します。ノサンバランド卿の息子、熱血漢のホッパーは「モーティマーの名を2度と口にするな」と言った王の言葉に憤慨し「あの不遇、悲運のモーティマーをもう一度再起させて見せる。あの忘恩、背信の王」と王を罵り「ぼくは、奴め(王)の眠っているところに行って、耳元で”モーティマー”と大声でわめきたててやる。いやそれどころか、ムクドリの奴めに”モティマー”とだけ唄う芸を仕込んで、それを奴(王)に贈ってやるのだ」・・・と怒り、罵りの声をあげた。(中野好夫訳:筑摩世界文学大系)

エリザベス王朝時代、人々はムクドリにオームのように人語を真似させていたと言われている。Eugene Scheiffelinがいくらシエクスピアの大ファンだったとしてもあのシェクスピアの膨大な作品の中にたった一箇所にしか登場しない「ヨーロッパムクドリ」如何して知っていたのかという疑問が残る。

実はこの頃、英国では、博物学・動物学の学会であるリンネ学会、イギリス動物学会の会員であるJames Edmund Harting(1841-1928)がシェクスピアの作品に登場する野鳥を分析した本がが出版されている。註17

5. シェクスピアとヨーロッパムクドリ